公開: 2023年1月7日
更新: 2023年x月xx日
1941年12月8日朝、日本海軍の航空部隊は、航空母艦から飛び立った戦闘機や魚雷を積んだ艦上爆撃機によって、ハワイ、オアフ島の海軍基地に停泊していた戦艦アリゾナなどを攻撃し、米国海軍の艦艇の多くに大損害を与えました。この攻撃に先だって、日本国政府は、米国政府宛に「宣戦布告」の文書を手渡すべく、長文の電報を米国ワシントンの在米日本大使館へ送り、12月8日の朝までに国務長官に手渡すよう指示していました。
しかし、長文の電報が大使館に届いたのは、前日の昼頃で、日曜日であったため、大使館には事務員がおらず、大使が暗号化された電報を受け取り、それを復号して英文でタイプしなければなりませんでした。このような予想外の事務的な処理に時間を費やしたため、日本政府の宣戦布告が、米国大統領であったルーズベルトの手に渡ったのは、日本海軍の奇襲攻撃が始まった後でした。当時の世界の認識は、戦争は、宣戦布告をした後で、戦端を開くことが約束でした。そのため、日本海軍のハワイ基地の奇襲攻撃は、宣戦布告なしの攻撃開始と言われました。
実際には、米国海軍は、日本海軍の艦隊がハワイに向かっていたことを察知していました。また、ルーズベルト大統領には、「日本海軍が、近く真珠湾を攻撃する」との報告がなされていました。真珠湾攻撃の後、ルーズベルト大統領は、国民に対して、「日本海軍が、予告なしに真珠湾の米国艦隊を奇襲した」として、「真珠湾を忘れてはならない」とラジオ放送で訴え、米国軍が第2次世界大戦へ参戦すべきであるとするメッセージを伝えました。
それまでの米国政府は、建国以来、「海外で起きている戦争に参加することを禁止する」とする原則を守ってきました。ルーズベルト大統領も、選挙戦の間は、「米国はヨーロッパでの戦争に関わらない」ことを公約に掲げていました。しかし、イギリスのチャーチル首相からの強い要請もあり、ルーズベルト大統領も参戦に傾いていました。そのような状況で、日本海軍が、先制攻撃を、仕掛けてきたわけなので、それを口実として、参戦の道を開いたわけです。
この真珠湾攻撃によって、米国政府と軍は、航空機を利用した戦闘の重要性に気づかされました。それまで、米国軍の航空部隊の戦力は非力で、武器も時代遅れのものがほとんどでした。ルーズベルト大統領は、軍からの提案を受けて、新型の戦闘機や爆撃機の開発計画を承認し、大量の戦闘用航空機の開発と生産に力を注ぎ始めました。また、米国海軍では、航空機を使った戦争のために、航空母艦が重要になることを見据え、航空母艦の建造にも力を入れ始めました。
真珠湾攻撃が実施された前後においては、日本海軍のパイロットの技量も、飛行機の性能も、米国海軍の戦力を上回っていましたが、日本よりも人口の多い米国は、パイロットを育成し、兵器の性能を改善し、その工業生産能力を活かして、軍事力を増強し、1年後には日本海軍の軍事力を上回るようになりました。さらに、米国軍では、日本軍の情報を分析するため、日本語に堪能な兵士を数多く育成し、配備することも行いました。